なかむら9条の会

平和が好き! 憲法9条が好き!

もやい塾学習会…沖縄戦とビキニ被災

14日(土)のもやい塾の例会に参加した。

今回は、大月町大浦在住の立浪さんの『沖縄戦とビキニ被災』の体験話でした。 

沖縄戦の体験

 昭和3年生まれの立浪さんは、昭和19年4月、官立の大阪通信学校に入り、戦局厳しき折、10月には卒業させられ、そのまま九州へ送られ佐賀で軍服と軍刀を受け取り、鹿児島へ送られた。

11月3日に輸送船に乗せられ、10日頃、沖縄の那覇港に入り、32軍の通信隊に所属することになった。新人4名が伊江島へ送られたが、20年の1月からは、連日米軍の空襲を味わうこととなり、何ら反撃もできず、3月初めには首里まで撤退することになった。

立浪さんは米軍の艦砲射撃で破壊された防空壕の落盤で生き埋めとなり、九死に一生を得て、救出はされたが、半病人となる。

5月中旬には、さらに摩文仁まで撤退。武器と言えば、自決用の手榴弾1個のみ。そこで米軍の捕虜となり、1年8か月の捕虜生活を送った。

立浪さんによると、捕虜生活はふんどし一つの、ほとんど裸の生活だったが、戦争体験の中で、捕虜生活のときが、貧富の差も学歴の差も階級の差もない、一番平等な扱いを受けた時だった…とのことでした。

もうひとつ、立浪さんによると…米軍の突撃部隊の先頭は、いつも黒人だった。危険な戦闘は常に黒人が出され、白人は後方で指図するだけだった。

今、日米共同の戦争が問題になっているが、もし、日本の自衛隊が米軍と共同の戦闘行為に入れば、米軍は、絶対に日本人を先頭に立てるだろう。と述べておられました。

当時立浪さんは、毎日がイモやカボチャ、麦飯などで生きていた。そんな経験のない、毎日白米を食べていた軍の指導者たちが、日本を地獄へ引きづりこみ、自分たちは、後方で指図だけしていた。

今の政治家たちも同じだ。戦争をしないと謳う…憲法9条は日本の宝物だ。絶対になくしてはならない。日本は島国だ。ヨーロッパと違う。軍隊が無くても平和に生きていける。

 

ビキニ被災の体験

立浪さんは1954年(昭和29年)当時、神奈川県三崎のマグロ漁船『第五幸進丸』で通信を担当していた。

その時の話が。今日16日のテレビのニュースで流れていた。

例によって、カメラでテレビを写真にした。 

 

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この画像のどこかに、私の姿も映っています。なんだかねえ、大阪と違い、四万十では人口が少ないので、何かあると、テレビや新聞に顔が出ることが、多くなっています。

(nakamura9)

 

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画像の文字でお分かりだと思います。

当時、水産庁から危険区域は知らされたが、なぜ危険なのか知らされていなかった。もちろん、放射能汚染の危険については、何の知らせもなかった。

また、船主からも操業中止や変更の指示はなかった。

船には風呂がないので、毎日海水で体を洗い、スコールを浴びた。

また、獲ったマグロは、毎日ご飯のおかずに食べていた。

40歳過ぎて全部歯が抜けた。43歳でマグロ船を降りた。

 だけど、私の体験では、アメリカの核実験は、29年以前にも行われていたのではないか…そう思う。 

 

 

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