なかむら9条の会

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辺野古支援に行ってきました⑤沖縄の戦跡巡り

沖縄に着いて2日目。1月22日は朝から沖縄の戦跡巡りの日です。レンタカー2台に分乗して海軍司令部壕を目指します。

海軍司令部壕は、沖縄戦において大日本帝国海軍の司令部として使用された防空壕である。戦後は旧海軍司令部壕としてその一部が一般に公開され、周辺は海軍壕公園として整備されている。豊見城市那覇市の市境に位置する。

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☝ 海軍司令部壕は雨でした                                     ☝ 入り口は戦後補修されたみたいです

司令部壕は1944年8月10日に着工され、同年12月に完成した。海軍第226設営隊(山根部隊)の約3000名が設営にあたり、ほとんどの工事はツルハシなどを用いた手作業で行われた。小禄地区(那覇空港)周辺にはこの他にも多数の防空壕が建設され多くの住民が動員されたが、海軍司令部壕は最高軍事機密であったため民間人は近付くことも許されず工事は軍隊の手のみによって行われている。

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5月半ばアメリカ軍は那覇市街地に迫り、陸軍は5月22日沖縄本島南端部への撤退を決め、小禄司令部壕を守っていた海軍もこれに合流するため武器の一部を廃棄して移動を開始したが、命令の行き違いがあり小禄司令部壕へ引き返している。6月に入ってアメリカ軍の攻撃が激しくなったため陸軍との合流は断念せざるを得なくなり、海軍は司令部壕付近に孤立することに。

6月4日午前5時、アメリカ軍は小禄飛行場の北部に上陸し司令部壕のある那覇市南西部を包囲した。大田司令官は6日夕方に辞世の句とともに訣別の電報を打って自らの覚悟を伝え、同日夜には「沖縄県斯く戦ヘリ」の電報を打って後事を託している。包囲が次第に狭められていく中で壕内
 に残った2,000名の海軍兵と共に玉砕の道を選んだ。

太田司令官の電文(一部)
私が知る範囲に於いては、県民は青壮年の全部が防衛のための召集に応募し、残された老幼婦女子は相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産の全部を失い、わずかに身体一つで軍の作戦に差し支えない場所の小防空壕に避難したり砲爆撃下でさまよい、風雨にさらされながら乏しい生活に甘んじています。 しかも若い婦人は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもとより、砲弾運び、挺身斬り込み隊への参加すら申し出る者さえいます。
沖縄県民はこのように戦いました。 県民に対し、後世、特別のご配慮をしていただくことをお願いします。

この電文のせいか、沖縄県民の感情は、太田司令官に対しては割と好意的だという。

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☝ 枝分かれした全長約450mの坑道といくつかの部屋からなり、砲撃に耐えられるよう重要な部屋はコンクリートや漆喰で補強されている。坑道の壁には建設時につるはしで削っていった跡が残されている。

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資料室には、戦争の跡の無残な死体などの写真がいくつか掲示されている。あまりにも残酷なので、ここでは1枚のみ紹介しておく。

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☝ 戦争写真の中でも有名な1枚・白旗の少女
少女の持った枝の先に白い布が括り付けられている。

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☝ 1945年3月、読谷海岸に集結した米艦隊。
『鉄の暴風』と言われたすさまじい艦砲射撃の後、米軍の上陸が始まった。

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南風原陸軍病院壕・20号入り口                    ☝ 壕の横には、ブーゲンビリアの花

1945年3月23日に米軍の空襲が始まると、沖縄師範学校女子部、県立第一高等女学校の生徒および引率教師237人が、看護補助のため動員されました。彼女たちは戦後、「ひめゆり学徒隊」と呼ばれます。(位置は那覇市の東側になります)

 5月22日、首里城地下に置かれた第32軍司令部が摩文仁に撤退し、陸軍病院も南部へ移動することになりました。その際重傷患者に青酸カリが配られ、自決が強要された壕もあります。「南風原陸軍病院壕跡」碑には、「重傷患者二千余名自決之地」と刻まれていますが、この数字に確かな根拠はなく、犠牲者の数はいまだ明らかではありません。


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☝ 壕の近くに憲法9条の碑が                         ☝ 壕から撤退する時に埋められた薬品が展示
憲法9条守ろう…の立て看板は各地で見かけますが(特に高知では多い)石の記念碑は私も初めてお目にかかりました。すごい、感動です
薬品は戦後に掘り出されたものです。

 

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☝ 壕の中は真っ暗。懐中電灯が頼りです。  ☝ 昔、壕の崩落を支えていた柱が朽ち果て、今も残っていました。とにかく壕の中は、暗い、狭い、じめじめ、天井低くて、頭をごんゴン…私には耐えられない環境です。こんなところに大量の患者が押し込められ、ひめゆり学徒が看病していたなんて…ねえ。

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ひめゆりの塔の前の壕を拡大した写真        ☝ ひめゆりの塔、その前に壕がある

ひめゆりの塔」は沖縄戦で亡くなったひめゆり学徒の鎮魂のために、沖縄戦の翌年1946年に建立されました。
ひめゆり」は学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉で、元来は「姫百合」であったが、戦後ひらがなで記載されるようになった。なお、植物のヒメユリとは関係がない。

第三外科壕(ひめゆりの塔の前にある壕)は19日朝、黄燐手榴弾などの攻撃を受け、壕にいた96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が死亡した。第一外科壕、第二外科壕は、アメリカ軍の攻撃を事前に察知し、19日未明までに地下壕から脱出した(そのうちの一部は第三へ避難、そして前述のごとく死亡)。しかしこれらの学徒隊もその後の激しい戦闘で多くが死亡した。そして、本島南端の浜に身を投げ、多くの自決者を出した。

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☝ 最初に建てられた(ひめゆりの塔)                 ☝ ひめゆり平和祈念資料館

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ひめゆりの塔入り口のあこうの木               ☝ 魂魄の塔

この「魂魄の塔」は、沖縄県で最初に建立された慰霊碑で、「ひめゆりの塔」や「健児の塔」のルーツでもあります。 
「魂魄の塔」に眠る遺骨はすべて身元不明者です。
摩文仁や魂魄の塔がある米須を中心に、全国のすべての、都道府県の慰霊碑がありますが、
沖縄県の碑」は存在しません。 あえてあげるならば、この「魂魄」が 沖縄県の碑といえるかもしれません。 沖縄戦で身内を失った者にとって、「魂魄の塔」は家族の墓と同じ意味をもっています。
 住民、軍人、米軍韓国朝鮮人沖縄戦で死んだ約3万5千人の人々が 軍民、人種を問わず葬られた、沖縄最大の塔である。これが戦後もっとも早く、 住民の手で作られ、平和への想いを込めた塔として、他府県の慰霊碑とは多少異質である。

復帰後の1979年2月、 「摩文仁の丘」に国立戦没者墓苑が建立され、遺骨の殆どがそこへ移されました。 現在、「魂魄の塔」には、わずかな遺骨しか残されていません。
 

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立法院議員の翁長助静(元真和志市市長)が、塔の命名を行い
「和魂(にぎたま)となりてしづもるおくつきの み床の上をわたる潮風」と碑文を記した。

翁長助静氏は、現沖縄知事・翁長雄志知事の父親です。

☞ ここには多くの都道府県の慰霊塔が建てられています。その中でも一番犠牲者が多いのが、意外にも北海道の部隊でした。その数10,787人断トツのトップでしたので、北海道の慰霊塔を掲載しておきます。

写真が多いので続きは次回に紹介します。

 

 

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